ポスト努力真理教と「清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実」
健康・人生 - 2017年06月08日 (木)

甲子園でPL学園時代の清原和博と戦いホームランを打たれた選手に、当時の清原を語ってもらうとともに、戦いを挑んだ選手のその後を描いた作品である。似たような作品で、高校時代に江川卓と戦って敗れた男たちを描いた「真実の一球‐怪物・江川卓はなぜ史上最高と言われるのか/松井優史著/竹書房」という本を読んだが、その野手版のような本だ。
どちらの本も、清原や江川の凄さよりも、敗れた男たちの人生の方に興味が言ってしまう。そして、必ず「不条理」な話に出会う。清原と戦った投手に関して言えば、甲子園に出るような凄い投手で、中にはその後プロ野球にまで入った人もいるのだから、清原に勝てなくても卓越した力量を持っているわけで、過去の球歴を誇りにして人生を堂々と歩めばいいと思う。しかし皆さんも、そして自分も、そんな事はできやしないのだ。絶対に「上」に行けないと分れば、必ず「選手生命」を絶とうとする。何も競技事に限らない。学問だって出世だって文筆だって芸術だって、そしてアイドルだってそうだ。燃え尽きられる人は羨ましいが、それが出来ない。だから自分で無理やり燃やしてしまうしかない。
清原和博と「清原と戦った男」とを隔てたものは何だろうか。「努力量」だろうか。そしてその後、プロ野球を根底から覆す勢いで活躍するも巨人入りから失速し、ついにシャブ中になったのは「慢心」なのか。おそらく違うだろう。もうこれは運命としか言いようがない。
何回も書いているが、日本は努力真理教を国是にして戦後の復興を果たしてきたが、もはやそれは「グローバル」や「リベラル」と同じく欠点ばかりが目立ち、信者が次々と「発狂」する一方、多くの信者のマインドコントロールが解け始めている。
そりゃそうだ。皆さんも経験してよう。人生における「成功」「社会的地位」と、努力量および人間性とに、殆ど数学的関連性なんか存在しないのだから。世の中、5時間努力したよりも10時間努力した人のほうが2倍得するようになんか出来ていない。実際問題、「成功」「社会的地位」は、むしろ家庭環境や「出会い」等、自分の努力の及ばない不確定要因と多大な関連性を持っている。だから私は口を酸っぱくして「努力真理教は間違っている」と言い続けているのであるが、ちっとも受け入れられない。
実は努力真理教も、民主主義やリベラルと強く結びついている。学歴社会や多くの難関国家試験・公務員試験がが好例だが、日本のエリート選出システムは必ず「身分や家柄に関係なく、試験さえ合格すればエリートの地位を獲得できる」体裁を採用している。学歴社会も各種試験も、民主主義の産物なのである。
いっそのこと、日本にカースト制度を持ち込んだら良いと思った事がある。日本型カースト制。ただ、スポーツ業界はやっぱりハングリーな奴が強いので制度導入は難しいだろう。しかし、エリート選出に関しては、カースト制度はそれなりに有効である。こう書くと「私は貧困だったが弁護士になって弱者のために」云々などと言う人がいるかもしれない。しかし自分の経験則で言えば、彼らの言う「貧困」の大半は「大企業社長に比べれば」レベルであって、もっと言えば、努力真理教というインチキカルト教団を守るための嘘に過ぎないことが殆どだ。それに万が一事実だとしても、全くのごくごく例外の1名のために、大多数の人間が努力真理教にマインドコントロールに毒され、やりたいこともやれずに、肝心の「成功」「地位」も得られず、それでも「努力」を続けて無益な一生を終える悲劇が許されて良いのだろうか。
リベラル・グローバリズムが国民を幸福にしないので「自国第一主義」が見直されたのと同じく、もはや努力する人を幸福にしないことが明白な「努力真理教」も、新しい思想の台頭で見直しを迫られること間違い無い。
ではまた。
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